謝る女
雨宮睦美
人はなぜ詫びるのか。企業はなんのために謝罪会見を開くのか。
疑問に思ったことはありませんか?矢面に立った人が、しかし神妙に頭を下げるのかと思いきや、予想を超えて派手な服装をしていたり、うっかり舌打ちしちゃったり、逆ギレしちゃったり。突っ込みどころ満載の会見を見ながら、「謝ったことになってないって」「逆効果だわそれ」って、テレビに話しかけたことが私は何度もあります。
確かに、大事な顧客情報をどっさり流出させたとか、痛ましい事故が起きた背景にずさんな管理体制が露呈したとか、虚偽の情報を謳って消費者を騙してしまったとか、そういうのは責任者がしっかり説明して真摯に謝罪すべきだと思いますし、個人の場合でも、たとえばスポーツ選手や芸能人が違法薬物を使ったとか人身事故を起こしたとかいうなら、それは法律に則って償いをするのが当然だと思う。でも、恋愛沙汰でゴシップをにぎわせたからと言って、「お騒がせして申し訳ありませんでした」っていうのは、一体誰に何を謝っているのだろうかと不思議に感じます。そんなもの当事者同士で話し合うなりお詫びするなりやっていただいて、別に「世間」に謝罪する必要ないんじゃないのかしら。別にヒロスエさんをかばっているわけでもなんでもなく、ただ家族や事務所やスポンサーではない私たちに謝られても、こっちも困るんですけど、という感じ。
こういうとき、昔学校で習った聖書の一節がよみがえるのです。
姦淫罪でつかまった女に対して、これは石打の刑ってことでいいですよね?と聞かれたイエス・キリストが「罪のない者だけが(この女に)石を投げよ」っていうものです。
姦淫罪でつかまった女を連れてきて「これは昔モーセが言っていた通り、石打ちの刑ってことでいいですよね?」と聞かれたイエス・キリストが放った言葉だとされています。そう言われちゃうと、まあ清廉潔白とは言えないよなあ、と感じた人々が一人ずつその場を去っていき、結局誰もその女に石を投げることはできなかった。
文春もそろそろなんというか、もっと建設的な方向に進んでほしいなあ。