お守りのネックレス



2020年3月11日
川崎けやき


2011.03.11 — 東日本大震災

あの日から、9年の歳月が経ちました。
東北の地にもやっと春の兆しが感じられる3月。
今日は、ある『お守りのネックレス』のお話しを少し。

実は、ちょうど9年の前のあの日、
わたしは実家のある宮城県に帰省しておりました。

自宅から離れた母の病院に付き添っていて
あの激しく恐ろしい大地震に襲われたのです。

地割れ、地盤沈下、停電、地響き、激しく続く揺れ…
これはただ事ではないと瞬間的に察したものの
どうすることも出来ない母と私は、病院から出るように言われました。

そして大きく崩れ落ちた駅舎を前に、
呆然と立ち尽くしたのを覚えています。
夕刻、勘を頼りに吹雪の中を2時間程歩いたでしょうか。
どうにか親戚の家までたどり着いたときには空はもう暗く、母と私の姿を見た叔父と叔母の驚く顔がやっと伺えるほどでした。

その晩、暗闇の中、ラジオから流れるニュースの数々に耳を疑いました。

海岸には津波で流された方の三百を超えるご遺体が打ち上げられているというのです。
親戚の家は海岸線からずいぶん内陸に位置していたので、あの時間、大津波が海岸沿いを襲っていたことなど知らずに、私たちはひたすら国道を歩いていたのでした。

災害時、人はその真っ只中にいると、目の前で起きている事しかわからないものなのですね。知る手段がないのですから。改めて痛感しました。

すべての通信手段を失った後、大津波がすぐそこまでやってきていることに全く気づくことが出来ず命を落としてしまわれた方々がどれほどいらっしゃたのでしょうか。

いたたまれない気持ちでいっぱいでした。

私がそこを歩いていたならそれは同じく自分の身にも起きていたということです。

ライフラインの中でも通信手段、情報の共有は本当に大事だったように思えます。

発信できない、情報を得られない、
たくさんの方々がメールや電話で安否を確認して下さったのに答えられない。

事実と情報が食い違っていてもそのことを誰にも伝えられない。
陸の孤島とはこのことでした。

幸い、私の実家は高台だったため
地震の被害を受けたのみで済みました。
家族の命も助かりました。
これは本当に恵まれていたとしか言いようがありません。

坂道を下ったすぐそこでは濁流が流れ
200人以上の人がショッピングセンターの屋上で、凍えながら何日も救助を待っていました。

9年が過ぎた今でも
100名弱の方々が、未だ仮設住宅での生活を続けていらっしゃるそうです。

あの日に生まれた友人の奇跡の息子さんは、
元気に成長し今日で9歳になりました。

実は、この東日本大震災が起きた数ヶ月後
仙台空港に働く大切な友達から連絡がありました。

『けーちゃんに作ってもらったネックレス、車と一緒に流されてしまったの。すごくショックで探しに行ったけど車はあったけど小さいものは無かったよ・・・今は息子や家族の身代わりになってくれたものと、自分を慰めている毎日です。もしできるならもう一度同じものを作ってもらいたいのだけど・・・』

私は涙が止まりませんでした。

彼女は、仙台空港が国内線の運航を再開した
震災翌月の4月13日・早朝、
滑走路に舞い降りた運行再開初便の姿(機体)を確認し、涙があふれて止まらなかったそうです。

彼女は東北の空の玄関、仙台空港の復興に向けて仕事をしっかりと全うしました。
どんなことがあっても、皆そうやって一歩一歩、今日の日まで歩んできているのですよね。

わたしはわたしに出来ることを。
私は彼女が『お守り』にとオーダーしてくれた、あのネックレスをもう一度お作りしました。

震災の際
たくさんの情報を調べて助けてくれた皆さん、
励ましの言葉とともに状況を察し『返信はいらないよ』と気遣ってくれた皆さん、そして落ち着いた頃を見計らって連絡をくれた皆さんのことを、わたしは、一生わすれることができないと思います。

9年が経過した今でも、
皆さんのお気持ちに心から感謝しています。

そして
最後になりましたが
新ためて東日本大震災にて
命を落とされた方々の
ご冥福をお祈りするとともに

昨今のCOVID-19 世界的流行による不安が一日も早く解消し、本当の『春』が訪れることを。
『人間』として『世界の平和』のために一つになれる、その日が来ることを。
心の底から願って止みません。

 

またお会いしましょう。
川崎けやき

2020.03.11

“お守りのネックレス”

Zelkova.K FINE Jewelry KEYAKI KAWASAKI
Website…www.zelkova-k.com
Instagram…@zelkova.k_fine_jewelry

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川崎けやき

大学を卒業し一般企業に勤めるものの、約半年で転職。転職先は服装や髪型など身だしなみについての規定が厳しい会社で、常に統一美を求められた。しかしせめてもの自己表現として、お気に入りの指輪をひとつ身に着けていたという。そんな中、お客様との接客中に受けた一言に感銘を受け、ジュエリーデザイナーを志すようになる。4年間、働きながら夜間のジュエリー専門学校に通うために、国の助成金も活用した。しっかりと技術を身に着けた後は、友人から結婚指輪のデザインなどを依頼されるようになる。やがてその評判は人づてに広がり自身の名「けやき」の学名から「Zelkova.K(ゼルコーバ・ケイ)」というブランドで独立。都内百貨店でのイベントやギャラリーでの展示販売も多数開催(現在は完全紹介での制作のみ)。ご主人と5歳の息子の3人家族。



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