古傷よ、こんにちは
雨宮睦美
私は人生において、自分で判断すべきときは即決めてきたし、選択の余地がないときは、まあいいか、と流されてきたし、あまり「悩む」とか「迷う」とかいう経験がないまま来てしまったので、振り返っても特に後悔もないし、幸せというかお気楽だったなあと思います。
そして記憶には美化作用というのが働くから、イメージとしてはもう常に安定して、ドラマティックな事件も起きない代わりに順風満帆で穏やかな日々、って感じなんですけど、50何年も生きてきてそんなはずもないですよね。
結構、どーするのよこれ?っていう状況に追い込まれてたこともあったじゃないか、居心地が悪いままそこから出られなかったりもしたと、たまにはそういう苦い失敗談を蒸し返してみようと思います。
現在も関わりのある方や、誰だか特定できてしまう人のことは書けないし、ごく最近のこともそーっとしておきたいので、時効だな、っと自分で思う昔の思い出をいくつか(笑)。
その1。大学に入った時に、なぜか体育会準硬式野球部のマネージャーになったこと。これはいまだに謎で、当時すでに阪神ファンだったとはいえ、何でその選択をしたのか思い出せません。どこかで勧誘されたんですかね。準硬式の部員は第二部(夜間)の学生、ほぼ首都圏以外の地方から集まった人たちが中心でした。ますます接点がない。女子マネは他にも何人もいました。最初は「ただいるだけでいいから」なんて言われたけどそんなの嘘で、授業がある時間なのに練習に出ろとか、それも炎天下のグラウンドで、ノックの球出しや球拾いをさせられたりしたんですね。
「なんなのこの人たち、特に強くもないくせに人使いが荒いし話が違う!」と文句を言っていたのは覚えています。多分、私が在籍していたのはごくごく短期間なんですが、飲み会にも出たし、そろいのブレザーも作らされたなあ。同じように何人もがすぐやめた中で、卒業するまで役目を全うしていた子がふたりくらいいて、ブレザー姿の彼女たちをキャンパスで見かけるたびに胸が痛みました。でも挨拶もしなかったし声をかけもしなかった。そういう自分にまた自己嫌悪を感じたりして。名前も思い出せないけど、あの時のマネージャーさんたち、いい加減な同期でごめんなさい。
その2。これも大学生の時。教養課程で取った「倫理学」が面白くて、大教室の講義にも結構真面目に出席していました。課題もせっせと書いて出していたように思います。いつの間にか教授が顔と名前を覚えてくれて、研究室に遊びに来なさいと言われるようになりました。で、その通り遊びに行ったのです。するとそこには、先輩たちがたくさんいて、なんというんでしょうか、独特のコミュニティができていたんです。曜日ごとにお茶出しだのお菓子調達だのの当番が決まっていて、教授を囲んでのいろんなイベント(皆で休みの日にお出かけするような)があって。げーめんどくさい。私は倫理学の講義が面白いと思っただけであって、この集団で仲良く付き合いたいなんて思ってないのに。
どうやら毎年、教授がお気に入りの学生(たいてい女子)を何人か見繕っては研究室に誘い、そうして集められた子たちが組織化していった、ということのようです。特にハラスメントはなかったと思いますが、ここにいるからにはそのルールに従わなくてはいけない。形としては将軍(教授)をめぐる大奥とかハーレムみたいな感じですよ。しばらく我慢して通ってみましたが、つらかったです。講義自体は最後までちゃんと受講したものの、研究室をどうやって抜けたのか、全然覚えてないや。
その3。時代的には1,2とあまり変わらない、でも学校とは関係のない話。母の友だちの友だちになんとも不幸な方がいて、かわいそうだから力になってあげて、っていうような流れで、なぜか私がその人の家で「刺繍」を習うことになったのでした。
刺繍?よりによって刺繍?編み物なら結構好きだったし得意だったけど、いわゆるお裁縫は避けて通っていた私が。
先生は独身の、当時60代か70代の女性でした。とても上品で物静かな方で、決して声を荒らげることもなく、不出来な私を叱るでもなく、淡々とお手本を見せてくださったんですが、謙遜でもなんでもなくて私本当に針仕事が苦手、もっというと大嫌いだったし、丁寧にやっているつもりでも、我ながら惨憺たるありさまで、一体なんで私はここにいるの?本当にこんなことがこの人の力になることなの?といつも不思議に思いつつ、だけど「やめたい」と言い出せず、結局1年だか2年だか、通い続けました。この場合先生と私のどちらがより辛抱強かったのでしょうか。
これも最後どうやってやめたのか、あと、一体何を刺繍してたのか、全く記憶にありません。